信州城跡めぐりキャンプの旅

キャンプ道具のギアを整理します

信州へのキャラバンが、いよいよ来週に迫ってきました
今日はキャンプのギアを整理して、必要なものを手配して、小物品はホームセンターに購入へ
朝晩はかなり寒くなったので、テントでは防寒対策が必要ですね
テント内では薪ストーブを焚く予定ですが、念のために、一酸化炭素警報機を購入、食器やカトラリー類のためにバックを手配、その他、少し新しいギアも購入

カトラリー類収納バッグ
11/8
(水)
広島東6:30→E2 山陽道 > E1A 新名神高速 > E1 名神高速 > E1 東名高速 > E19 中央道624㎞→15:00伊那IC キャンプ場でテント組立
ガソリン¥11000+高速料金¥13400=¥24400
ながた自然公園キャンプ場
長野県上伊那郡箕輪町中箕輪2084番地20 ¥8000(3泊4日)オートサイトAC電源あり
11/9
(木)
伊那8:30→20km→9:00高遠城跡11:00→麦草峠89・8kmkm→13:30龍岡城跡(佐久市)14:30→25.3km→15:10小諸城址16:30→23.6km→17:00上田市
走行161km ガソリン¥2880
ツーリスト 美乃和
長野県 上田市武石沖565-2 ¥8200/人(洋室ツイン2室 朝夕、食事付き)
11/10
(金)
上田8:30→20.5km→9:00上田城11:00→34km→12:00松代城14:00→115km→15:30伊那
走行145km ガソリン¥2610
ながた自然公園キャンプ場
長野県上伊那郡箕輪町中箕輪2084番地20
11/11
(土)
伊那9:00→ E19 中央道 > E1 東名高速 > E1 名神高速 > E88 京滋BP > E88 名神高速 > E1 名神高速 > E2A 中国道 > E74 広島道 > E2 山陽道680.5km→17:30 広島IC
山陽道は播磨のトンネル通行止めのため中国道を経由
ガソリン¥11000+高速料金¥9800=¥20800
ガソリン(1600km)¥27490+高速料金¥26800+キャンプ¥8000+宿泊¥16400
概算費用合計¥78690(¥39345/人)
ながた自然公園キャンプ場オートサイト

ながた自然公園キャンプ場オートサイト
・AC電源がついている
・ペットは可能
・売店には薪・炭は販売している、ゴミ処理料500円/1泊・1サイト
▼周辺施設のご案内▼
みのわ温泉ながたの湯(9:45~21:00 ¥500)・・・車で約3分
みのわテラス(農産物直売所等)・・・車で約5分
ローソン箕輪中箕輪店・・・車で約3分
セブンイレブン箕輪中箕輪店・・・車で約7分
ウエルシア薬局箕輪店・・・車で約7分
スーパー ベルシャイン伊北店・・・車で約10分

ツーリスト美和
ツインを二つ予約

高遠城
戦国時代になると、信濃へ侵攻してきた甲斐かい武田信玄たけだしんげんが、伊那谷攻略の足がかりとして高遠を押さえ、高遠氏から城も奪い取りました。天文てんぶん16年(1547)に信玄は高遠城の改修を行い、城主には秋山虎繁あきやまとらしげや信玄四男の諏訪勝頼すわかつよりが就きましたが、勝頼が武田家の後継者こうけいしゃとして甲府に呼び戻された後は、信玄弟の信廉のぶかどや信玄五男の仁科盛信にしなもりのぶ(信盛)が城主となっています。信玄の近親者ばかりが高遠城主になったのは、ここが南信濃支配の拠点であり、遠江とおとうみ、信濃、甲斐をつなぐ交通の要所として重要視されたからだと考えられます。
武田氏による高遠支配は35年ほど続きましたが、織田信長が勢力を拡大する中で、高遠城は武田対織田の壮絶そうぜつな戦いの場となりました。
天正てんしょう10年(1582)3月、高遠城主であった仁科盛信は敵方の総大将であった信長の嫡男ちゃくなん、信忠からの降参こうさんの要請に応じず城にこもり、数千の兵で数万の軍勢を相手に一戦をまじえました。織田勢の大軍にひるむことなく戦った盛信でしたが、城はわずか一日と持たず、多くの家臣はち死にし、盛信も自害じがいし、高遠城は落城しました。
高遠城落城から時をおかず、甲斐の本国にいた武田勝頼たけだかつよりも織田信忠に攻められ、戦国大名武田氏は滅亡しました。一方、武田氏を滅ぼした織田信長もわずか3ヵ月後に京都の本能寺ほんのうじで命を落とし、支配者を相次いで失った高遠を含む信濃国全体が混乱におちいりました。
混乱に乗じて高遠城に手を入れたのは、藤澤郷ふじさわごう(現在の伊那市高遠町藤沢)に本拠を置いていた武田家の旧臣、保科正直ほしなまさなおでした。正直は高遠城の戦いの際、城から脱け出して身を隠していましたが、本能寺の変の後、北条ほうじょう氏の力を借りて高遠周辺を押さえ、その後徳川家康の配下となり高遠城主となりました。
天正18年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた家康が江戸へ移ると、保科正直も付き従い、下総しもうさ多胡たこ(現在の千葉県香取郡多古町)へ移動しています。正直が去った後の高遠城は、秀吉政権の下、毛利もうり氏、京極きょうごく氏の領地となりましたが、城主は置かれず、代官が派遣される形で統治されました

高遠は古くから諏訪すわ氏の勢力圏にあり、14世紀頃(南北朝の時代)に諏訪氏から分かれた高遠氏が一円いちえんを治めていました。高遠城の築城年代は不明ですが、当初は高遠氏が拠点きょてんにしていた城だと考えられています。
高遠城は、天竜川てんりゅうがわ水系すいけい最大の支流である三峰川みぶがわ藤澤川ふじさわがわという2つの河川の合流点に形づくられた河岸段丘かがんだんきゅうの上にあります。本丸の標高は約800mで、西側の城下から見ると小高い山のようになっていますが、上部は平地になっており、一般的に平山城ひらやまじろと呼ばれる形の城です。三峰川に面する南側は切り立ったがけになっており、三峰川から本丸までの高低差は約80mもあり、地形のけわしさをたくみに利用した城です。
ここは諏訪盆地と伊那谷を結ぶ杖突街道つえつきかいどうに面する交通の要衝ようしょうであり、伊那市街地まで一望できる高台にあることから、軍事上重要な場所に造られた城であることがわかります。
五芒星形の西洋式城郭

龍岡城は、長野県佐久市田口にある日本の城跡。幕末期に築城され、龍岡藩(田野口藩)の藩庁が置かれていた。龍岡藩は1万6千石の小藩で、城主の格式は認められていないため、厳密には城ではなく陣屋である。日本に二つある五芒星形の星形要塞のうちの一つである(もう一つの例は北海道函館市の五稜郭)。別名は龍岡五稜郭、あるいは桔梗の花にたとえて桔梗城
龍岡城は函館とともに日本に2つしかない五芒星形の西洋式城郭のうちのひとつです。函館の五稜郭に3年遅れ、1867年(慶応3年)に龍岡藩主・松平乗謨(まつだいらのりかた)によって築かれました。完全な完成前に明治維新を迎え、廃城となりました。廃城後、城内のほとんどが農地転用されましたが、稜堡式の石垣や水堀に加え、御殿の一部である御台所櫓が現存しています。また大広間や薬医門などの建造物が市内に移築され現存しています。

小諸城跡
平安末期、源義仲の挙兵に従った武将のひとり小室光兼が後に源頼朝に仕え、この地に宇頭坂城を築いたのが小諸城の起源とされる。その後南北朝時代に小室氏は衰退し、大井光忠が1487年宇頭城跡を整備し鍋蓋城を築き、その子が出城の乙女坂城を築いた。1543年武田信玄がこれを攻略し、山本勘助らに命じて鍋蓋城・乙女坂城を取り込んで拡張整備したと伝わる。豊臣政権成立後、1590年仙石久秀が城主となり礎石建物、瓦、石垣で構成された近代城郭に改修した。城は城下町より低い場所に城郭があるため「穴城」ともいわれる。天守台は織豊期の様相を残す初期の算木積が用いられ、信濃における最も古い石垣と位置づけられている。

懐古園マップ
三の門

上田城は天正11年(1583)真田昌幸によって築城され、天正13年(1585)第一次上田合戦・慶長5年(1600)第二次上田合戦の二度にわたり徳川の大軍を退けたことで知られています。二度もの実戦経験があり、上田城のような戦歴を持つ城は全国でも例がありません。関ヶ原の合戦後、上田城主は真田信之となり、以後、仙石氏(三代)、松平氏(七代)とかわり現在に至っています。

真田信繁(幸村)の父、真田昌幸によって築城された上田城は第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られています

細田守監督の映画「サマーウォーズ」の陣内家お屋敷の門
2009年に公開されたアニメーション映画「サマーウォーズ」ではヒロインの実家、陣内家お屋敷の門として登場することでも話題となり、多くのファンが訪れるスポットでもあります。

出典元:サマーウォーズ公式サイト

舞台となった屋敷の場所は上田市街と真田の町並みが一望できる砥石城跡か米山城のようです。この城は山城で、この地方に勢力を張っていた村上義清の重要な拠点であり、武田信玄が2度目の敗北を喫した「砥石崩れ」の舞台です。

松代城跡 かつては海津城と呼ばれ、武田信玄と上杉謙信が戦った川中島合戦で武田側の拠点として築城されました。江戸時代に真田信之が松代藩主として移った後は、真田氏十代が城主としてこの地を治め、十万石の城下町を形成したといわれています。

松代城の顔である内堀・石垣・太鼓門と太鼓門前橋 
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