豊臣秀吉から掛川城へ配置された山内一豊は、大規模な城郭修築を行い、掛川城に初の天守を築き、大手門を現在の場所へ建築し、城下町の整備や大井川の治水などにも尽力し、その後山内一豊は、関ヶ原の戦いなどを経て土佐藩の城主になる・・・現在、掛川城は木造建屋で復旧されている
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山内一豊は尾張国に盛豊の第四子として生まれ、父の戦死により若くして放浪の身となった一豊は、豊臣秀吉にその槍使いを認められ、秀吉の家臣として織田信長の浅井・朝倉攻めに参加。朝倉の将・三段崎勘右衛門を討ち取るなど大きな働きを見せ、妻である見性院と一緒になっています・・・ 信長没後は、豊臣秀吉の天下統一への道とともに、時代の流れに乗るように出世を重ね、やがて、徳川家康に掛川城を明け渡し、関ヶ原の合戦での働きを評価され、掛川城主から土佐藩主となり土佐藩の礎を築きます・・・一豊がここまでの地位を築くことができたのも妻の存在が大きいと言われており、「内助の功」として数々の美談を残しています