VFKさんが友人で陶芸家の新さんと一緒に昼に訪問してきました・・・近くのお好み焼屋で昼食をして、陶芸の話しから歴史、お寺の話しまで夕方まで新さんのお話で盛り上がります
新 桂三さんは伊賀焼きの陶芸家で、今回は米子での個展のために広島に寄られたそうです・・・陶芸と茶器の関係から、たいへん歴史とお寺に詳しくお話は面白く参考になりました・・夕方に広島のデパートのギャラリーを見たいとのことなので、そごうと福屋を廻ります・・・二つとも陶芸作家の個展即売会がありました・・・思ったより値段が安くなっているので少し意外でした
再び家に戻り食事をしながら話しが続き、茶器の鑑定から作り方、見方まで話しが続き、新鮮な気分になりました・・・VFKさんは下戸なので安心してお酒が飲めますので・・・熱燗で二人で大いに飲んで、気がつくともう11時を廻っています・・・楽しい時間を過ごせました
また灰青磁の記念の杯までいただき、たいへん有名な先生のようですが、すっかり友達扱いで失礼しました
今週末から米子の高島屋で個展を開かれるそうです
トーキングもあるので土曜日にはちょっといってみようと思います
伊賀焼きについて新さんの紹介文がありますので掲載しておきます
この紹介文の内容の歴史を色々と説明をしていただきました
新さんと筒井伊賀
春日大社権宮司 岡本彰夫
新桂三さんとは、裏千家業躰・泉本宗悠先生の会でお会いしてからのお付合いで、もう随分な年月交流をさせていただいている。
何故意気統合したのかというと、新さんの伊賀焼に対する高説に、なるほどと領かざるをえなかったからである。
衆知のとうり、最高峰の桃山茶陶の中で、更に最高峰を極め、今もそれを目指しても目指しきれないと迄言われる。〝伊賀焼″。しかしその伊賀焼は、全くと言ってよい程、神秘のヴェールに包まれている。
土もわからぬ、窯もわからぬ、そして焼成期間もわずかに二十有余年と考えられる「筒井伊賀」。この謎の焼物を創出した人物、それは〝筒井定次″ という人なのである。
筒井定次
定次の素暗しい美意識、いや定次の全人格を投影した焼物であることを、今迄誰が言及したであろうか。この定次を解明することが 〝筒井伊賀”を解明することだと着目したのは誰あろう、新任三氏なのである。
そもそも筒井氏と春日大社とは、浅からぬ関係がある。春日・興福寺は一体化して、日本の歴史にその大いなる足跡を留めてきたのだが、筒井氏は興福寺の「衆徒」。つまり僧兵の棟梁で、大和国中に分散していた中から、二十人が選ばれた「官符衆徒」の一家であって、原則としては四ケ年を任期として寺中に住居し、寺門(興福寺一山)と社頭(春日一社) を警備し、大和国中の検断権を有するという名門なのであった。僧籍を有するが半僧半俗で、婚姻をゆるされしかも弓箭を帯びるという家柄である。
興福寺のこと
ここで少し申し上げておく必要があるのは、興福寺乞いう存在がいかに絶大なものであったかということである。その証左は『後鑑』の永享元年(1429)十二月の条に「和乃春日社爵鬱口巴」而興福司其治。東大左右之」とある。
大和国は春日社の所領であって興福寺がこれを治め、東大寺がこれを左右するのである。と書かれていることから察しても、その規模の大きさに驚かされる。
筒井氏はこの大寺の僧徒であり、同寺一乗院(大乗院と交互に別当に就任する)の坊人で、同寺成身院の家元(院王は筒井氏より出る)格式を誇る。本拠地は大和国添下群筒井(現勅和群市筒井町)で、室町以来興亡を繰り返して定次の祖父順昭に至って台頭する。しかし順昭は天文十九年(一五五〇)に病没。その子が世に名高い筒井順慶である。この時順慶わずか二歳であったことから、父順昭の死を秘して順昭と瓜二つであった奈良・木辻に住する黙阿弥を影武者に立て、一年を過ごしたと伝えられる。
その後黙阿弥には恩賞を与え、元へ戻したことが「元の黙阿弥」の語源だとする面白い詰もある。
さてその順慶は幾多の苦労を経て、織田信長のもとで大和一国支配を実現する。もとより僧籍にある順慶が、大和を領したことが大和にとって幸いしたことは、申す迄もない。
もし心ない猛々しい武将が大和を治めていたならば、今日これだけの文化財が遣っていなかったかもしれないからである。
世に順慶は、「洞ヶ峠を決め込んだ」人物として、日和見主義の代表の如き悪評を受けたまま現在に至っているが、それは片手落ちな評定で、一家一国の存亡をかけて戦っているのだから、致し方もないことであろう。順慶は神事と法会を守り、更に興隆させた功により僧都法院に勅任され、官符衆徒の棟梁としての役割も立派に果たしている。
謡曲や茶湯も好んだ文化人で、彼の有名な井戸茶碗「筒井筒」を所持したことでも知られている。
その嗣子定次は永禄五年(一五六二)に、大和の滋明寺城(現橿原市)に生まれ、父は滋明寺傾国。元亀三年(一五七二) に順慶の養子となり、天正十二年(一五八四)にその道領を継ぐが、翌年伊賀上野城へ転封となる。ここで二十万石を領し、従五位下伊賀守に叙せられて羽柴の姓を賜り、後に従四位下待従へと進む。秀吉の朝鮮出兵の際、肥前名護屋城に赴いていたが、その時長崎でイエズス会巡察使バリニァーノから洗礼を受け、キリシタンとなった。
このことは定次の人となりを考えるうえで見逃してはならない出来事であろう。今迄述べてきた、この生い立ち、この環境の中でキリシタンへの道を選んだ定次という人物は、まことに感受性の強い、探究心捨て難い純真な人ではなかったろうかと思えてならない。尚定次の正室は織田信長の娘であったことも申し上げておく必要があろう。
この定次がめざしたもの、めざした芸術としての茶陶。そこには定次の全人格と、生きざまそして教義が傾注された 〝伊賀焼″ がある。その「無作為の作為」の中にこの人のすべてと、目論見それから表現を汲みとらずして、筒井伊賀の解明はあり得ない。
大和そして春日・興福寺という、とてつもない大きな歴史と文化を背負いつつも、更に西欧の新しい宗教へと移っていった定次を見据えて、命をかけて伊賀で作陶に打ち込んでいる新さんの後ろ姿を見ていると、この人でないとなしえない伊賀焼の慈奥へと迫る、〝生命の焔が我々の心にせまり寄せて来るのだと私は感得している。
永年に百一る労苦を、ただ「楽しかった」と笑顔で語る新さんの人柄にも、日疋非会場で接していただきたいと念願するし、もちろんその品格をすべて投影した作品は、充分に御堪能いただける筈だと確信している。
伊賀焼きとは 新桂三
伊賀焼とは桃山時代の茶陶伊賀を言います。そ丸は筒井定次が、伊賀の領主であった.
1585年(天正13) から1600年(慶長13)にすての二十四年間に焼かれたもので、特に耳瀕花入、耳付水指が有名です。
その中でも重要文化財として畠山記念館所蔵の耳付傭人銘「からたち」は加賀前田家に伝来した花入で伊賀の中でも破格の美を象徴しています。焼成中に頭部が割れて欠失し、その残片が胴に散っているという所から頼のあるからたちの花定因んで名付けられたと言うことです。
伊賀の穴窯
また石島美術館所蔵の重要文化財、耳付水指銘「破袋」は大阪城の武将大野主馬に送られたもので、古田織部の添書があります。「今後これ程のものは出来ない大きなかん罅割れが入っているが、堪忍しなさい。」と。本来「破袋」の銘はなかったが重要文化財の指定に際して名付けれれました。伊賀焼はこうした破格の造形美意識を持ち哲学的思考を盛りこんだ焼物と思います。
こうした伊賀の基をなす焼成法は筒井氏が大和の国衆あった政に須恵器を作る職人をかかえていたためと思われます。それゆえ穴窯の極限の焼成方法による伊賀焼が出来ました。
秀吉の恩賞として
戦国時代の茶陶は織田信長が戦功の代償として焼物などを武将にあたえていたことで、秀吉は政治的な役割の一つとして伊賀焼をもちいたのではないかと思います。信長没後、秀吉の天下になっても家康の力が大きく、そのため豊臣方の武将達に服従させるための道具としていたとも思えます。それは裏切りは許さずと見てとれます。
花入は武将の甲宵をつけた立ち姿で、水指は甲胃を付けて座した姿と見ます。そして伊賀焼の造形は、骨格のたくましい体とか、やさしい武将とか年をとった武将とか、いろいろな人物像として各々埴輪としても見てとれます。
故に一つとして同じ物はありません。その一つ一つが、あるものは頭がもげ、あるものは頭に傷をつけそこから血が流れ出たような一すじの鉄でえがいた作意が見られ、暗黙の圧力で.あるように思えます。
また花入を見ると正面と後がはっきりしていて、正面の方は穴莞の中の火裏で明るく、後は窯の火前で黒く焦げています。この黒く焦げた方は千利休で明るい方は古田織部です。伊賀焼の特徴はまさに利休と織部の中間的美意識を持っている筒井定次の焼物ではないでしょうか。故に伊賀焼の花入は利休を背おっているがごときに見えます。
秀吉の戦略
こうした花入、水指は豊臣方の武将に多く送られ、徳川方の武将には見られません。
伊賀焼は秀吉が作らせた焼物であると言えるかもしれません。故に秀吉にかわいがられた筒井定次は羽柴の姓を賜り、羽柴伊賀守定次と名のりました。
藤堂伊賀
そして秀吉の死後1600(慶長5)年の関ケ原の戦いで、定次は東軍に属しながらも筒井氏が弱体になりキリシタン大名であったこともあり、伊賀の領主としては不適格とされ1608年改易の憂き目にあいました。そして家康の時代になり徳川磐石の時代が来るまで、伊賀一国と伊勢八群の領主となった藤堂高虎(1556~1630年)が藤堂伊賀をつくり、徳川方の武将に伊賀焼を送り圧力をかけたものと思います。
藤堂高虎の嫡男二代藩主藤堂高次時代になっての伊賀焼は遠州好みと推測され、京風の作意が加わり桃山時代すなわち筒井伊賀の命をかけた迫力がなくなり後伊賀焼は途絶える事になるのです。
そして昭和初期に上野城と松尾芭蕉を祀った俳聖殿を自費を投じて独力で建立した郷土の政治家川崎克(号克堂)先生の復興伊賀焼で再び今の伊賀焼へとつながっていきました。